2011年3月11日14:46
あの日から9年が経ちました。
初めて、自分が被災地に伺った日の個人Twitterに残された記憶を記します。
忘れたいために。
南三陸町の町を見た。現実とは思えないような現実があった。
2011.05.04 12:17
南三陸町の街の状況を見たら、復興なんて言葉は簡単に言えない。
2011.05.08 23:57
話をした少年の家の丘の下では、毎日、瓦礫が燃やされていると言う。しかし、鉄骨や車は燃やせないのです。
2011.05.08 23:58
「営業中」の手作り看板を懸命に振る従業員さんのレストランで食事をした。紙皿で出される料理。それなのに、お水を出せないからと、瓶のジュースにストローを差してサービスしていた。ジュース分儲けてくれていいのに。
2011.05.09 00:00
状況のよいという避難所のトイレ。鍵のかかる扉は無く、ブルーシートを切ったような物に角材が付けられた目隠し。女性達も、そこで用を足していた。生きることに比べれば、羞恥心を捨てることなど、容易いことなのだろうか。
2011.05.09 00:05
ゴールデンウィークで溢れたボランティアが、翌日には、5人必要なところに1人しか割当てられないという。求められているのは、継続的な支援。ショートタームで、問題が解決するような状況では、ないのです。
2011.05.09 00:08
避難所の広場ですれ違った親子。建物に入ろうとしない子供に、お母さんが言った言葉「おうちに帰ろう」段ボールに囲まれた畳数枚のスペース。それが、その親子にとっての家。自分の置かれた状況を受け入れること、自分なら出来るのだろうか。
2011.05.09 00:12
写真は、大槌町のビルの上に載ってしまったバスと南三陸町旧防災庁舎。
(画像は自身で撮影したもので転載などではありません)